1日目 知らない東京
2021年1月29日(金)午前11時、何の用事か忘れたが、私は吉祥寺に来ていた。この頃は、仕事に慣れてきたせいもあり、以前よりは楽になったとはいえども、毎日23時近くまでの残業、そして新型コロナウイルスの蔓延が全然収束しない状況が重なり、かなり鬱屈としていた。
2020年のゴールデンウィークは、イタリア・シチリア島でゆっくり過ごす予定だった。お金を貯めて、航空券まで取っていたが、諦めざるを得なかった。これまで海外旅行を楽しみに仕事を頑張ってきただけあって、余計に鬱屈さが溜まってしまっていた。
国内旅行も楽しいが、何しろ海外旅行は新しい発見や予期せぬことが起きる。いわば非日常のスリリングさが何よりも楽しい。国内旅行は東京を出発して、時間通りに目的地に着き、宿はキチンと予約されていて清潔だ。観光地はどこも整備されていて、丁寧に応対してくれる。全てが予定通りに進んでいく。そこにいくらか物足りなさを感じていた。(今思えば旅の仕方によるのだけれど)
コロナで海外旅行に行けなくなったから、国内で冒険的でスリリングな旅をしてみたい。そして何よりも感染リスクの低い方法で。存分に旅の密度を濃くして、見知らぬ場所を存分に体感したい。そのように思いを巡らせている時、啓文堂吉祥寺店でとある本を見つけたのだった。それは旧東海道のルートを地図とともに紹介している本だった。早速会社帰りの23時台、京王線で眺めてみる。素晴らしい。知っているようで、国内のことを全然知らないことに気付かされる。東京と京都、何度も移動したことがあるし、京都は幾度か訪れた。雰囲気も言葉も風土も違う事は知っている。けれども、どのようにこの都市間で文化が移ろい、変化していくのかは全く知らない。そして、昔の人達は、その都市間を歩いて、移ろいを肌で感じていたんだ。新幹線も飛行機もある現代に、昔の道を辿ることは、新鮮な体験になるのではないかと思った。実際にこの本で紹介されている場所には全然行ったことがなかった。知っているようで、全く知らない土地の地図が延々と記されていた。
1月31日(日)、私は横浜に憧れており、横浜市への転居を計画している。そのため、この日は神奈川区のとある物件の内見をした(あれこれ迷っているうちにその部屋は他の人に渡ってしまいいまだに引っ越していない)。午前中にもろもろが終わり、午後は暇だった。
横須賀線に導入されて一ヶ月足らずのE235系が、横浜の街並みをバックに通り過ぎていく。
丁度、金曜日に買った東海道の本を鞄に入れていたから、一つ目の宿場である品川まで歩いてみようと思いたった。ひとまず浅草線に直通の京急に乗り、日本橋へ。五街道の起点、日本橋。普段、この街に用事なんてないから、訪れたのは数年ぶりだ。今の橋は明治44年に架けられた橋だそう。少ないとは言えぬ交通量を支えているこの橋が100年ものだとは思いもしなかった。そして橋の上の日本橋の文字は徳川慶喜が揮毫したものだった。案内をゆっくり読んでみると知らないことが沢山ある。
現代でも、重要な道の起点であることには変わらない。
日本橋から旧東海道(現・中央通り)を眺める。この道は遥か京都まで続いているのか。そして、もし仕事をしつつこの道を踏破できたら、さぞ大層な達成感だろうし、その道中を全部知ることができるというのは貴重な体験だろう。この時はまだ、踏破できる自信はなかった。
日本橋から南下して歩き始める。日本経済の中枢なだけある街の雰囲気。それぞれのビルが、有名企業の本社なのだろう。一つひとつのビルに意匠が凝らされていて、重厚だ。だけど、どこも奇抜であったりはせず、風格のある街並みに華を添えている。東京の中でも、銀座や日本橋は、新宿や渋谷、池袋などの後発の街とは別格の佇まいだ。
旧東海道(現・中央通り)の地下には、日本一古い地下鉄である銀座線が走っている。やはりこの道が今も昔も大事であったということなのだろう。銀座線は、日本橋を出ると、京橋、銀座と続く。実際に歩いてみると、あっという間に京橋だ。江戸歌舞伎発祥の地という碑があった。1624年(寛永元年)に、この地で猿若中村座という芝居小屋が建てられたのが始まりだそう。
歌舞伎発祥の碑の隣には、大根河岸青物市場跡という石碑もあった。昭和初期まで、京橋川沿いに、近郊で採れた野菜の売り買いを行う市場が賑わっていたそうだ。下記サイトに詳述されていたので参考にされたし。京橋川に、大根河岸が賑わったころ。|東京クロニクル | 東京街人
かつては、京橋という橋があったようだ。戦前は京橋区と区の名前にまでなっているのだからこの辺りのシンボルだったのだろうか。現在の川は暗渠となっている模様。擬宝珠(ぎぼし)が残っている。
日本橋から寄り道しつつ30分、銀座へやって来た。
シンボルである和光。これでも人通りは少なくなっているのだろうか、銀座4丁目の交差点は大変な賑わいだ。
銀座から、少し歩くと新橋へ。新橋もかつてはその名のとおり橋が架かっていたようだ。擬宝珠のある橋は江戸市中だと、日本橋、京橋、新橋の3つだけだったそうで、それだけ東海道が重要視されていたということが分かる。銀座8丁目の首都高の高架下には、数年前まで貸切バスが止まって、中国人観光客たちが集まり、押すな押すなの大賑わいといった様相だったが、コロナ禍になり辺りはひっそり。そしてこの高架をくぐると銀座から新橋へと一気に空気が変わる。銀座線もここで西へと折れる。通りの名も中央通りから第一京浜と名を変える。ここが街の境目なのだ。(実際に中央区と港区の区界らしい)
ヤクルト本社前の自販機は、スワローズ仕様。この年に優勝するとは思いもしなかった。
汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり・・・と鉄道唱歌の始まりに歌われているこの地は、明治五年に初めて日本で鉄道が走り始めた街。後に、東海道を歩き続けると、鉄道唱歌で歌われている景色が、すべて歩いてきた場所となり、涙ぐまずには聞けなくなるとは、この時思いもしない。
新橋を過ぎると、オフィスビルとマンションが連なるようになり、道路も幹線道路の顔になる。
東京タワーの近くまでやってきた。少し東に並走する山手線だと、まもなく浜松町というところだ。少し東海道から逸れて、浜松町の駅の方に歩き、一服しようと世界貿易センタービルの前までやって来ると、何やら人だかりがある。
偶然にも、世界貿易センタービル建替えのため、展望台がこの日最終営業日だったのだ。急ぐ旅ではない、ここは見ておきたい。
長蛇の列。しかし私は喜んで並ぶ。
天井の低さや床のタイルな感じが昭和。歴史を感じる。壊されていしまうと知ると、途端に名残惜しく感じてしまうものだ。
待つこと約45分、ようやく順番が回ってきた。時刻は16時40分。ん、これはもしかして夕焼けが綺麗なのでは?と思い、高速エレベーターで上昇しながら、一気に期待が膨らむ。
最終日の展望台から見る東京。昼から夕方に移ろい始めた時間帯。夕暮れ時とはまだ言えぬ。遠くの空が淡い茜色になり始めていて、2色の空が街を覆う。北に向かって眺めた景色。汐留や大手町の高層ビル群が見える。
北西の方角を眺めると、愛宕山ヒルズや赤坂あたりの高層ビル群。そして、西に目をやると、
増上寺とプリンスホテルの向こうに聳える東京タワーが綺麗なこと。時を忘れて佇む。きっと出来たばかりの世界貿易センタービルからは、東京タワーだけがぽつりと聳えていたのだろう。周りに高層ビルが立った今でも、その存在感は唯一無二だ。美しい。
南西の方角を眺めると、東海道がこの先通る、三田や品川の方面が見渡せる。
今度は東の方に目をやる。思っていたより東京湾に近い。港区という名前であることを実感する。四方とも見応えがある景色だが、やはり東京タワーが見える場所に、みんな集まっていた。
最終日の展望台、寒風の当たらぬ暖かな展望台で、それぞれ心残りのないよう、ゆっくりと景色を噛み締めていた。
再び、品川を目指す。17時を過ぎてだいぶ暗くなってきた。この辺りでは浅草線が東海道の下を走る。浅草線で三田、泉岳寺と二駅行けば品川は目の前だ。金杉橋を渡る時、首都高の下を流れる川には沢山の船が停泊していた。やはりここは港町なのだ。都会の片隅に、海と暮らす生活が窺える。
三田まで来た。時刻は17:30、だいぶ寒い。東海道沿いには薩摩藩邸跡がある。勝海舟と西郷隆盛がこの地で話し合い、江戸城は無血開城となった。工事中だが、案内が出ているのは嬉しい。
芝5丁目の交差点で日比谷通りと合流する。向こうには明るく照らされた東京タワー。夕方とはまた違う姿だ。少し行くと不自然に歩道が曲がり、大きな石垣と大木を避けている。
これは高輪大木戸の跡ということらしい。ここは、江戸市中への入口だったそうで、両側に石垣があり、夜の間は門が閉められていたらしい。ここで遠く西へ向かうお伊勢参りの人々などの見送りがなされており、茶屋も出ていたと案内がある。ここで、江戸の街を出るということになるみたいだ。そして、近くには山手線の新駅、高輪ゲートウェイがある。大木戸もいわばゲートウェイか。賛否両論というか否定的な意見が目立っていた新駅名。されどこの高輪という場所を巧みに表した駅名なのかもしれない。
高輪ゲートウェイから品川までの間は、再開発の工事中だ。この写真はかつて泉岳寺駅の入口だったのだろうか…。使ったことがあるかもしれない。
工事現場の方を眺める。高輪ゲートウェイの駅以外は真っ暗。これから数年で様変わりするのだろう。今や江戸の外だったこの地も、都心の中の都心。
18時を過ぎてようやく品川。品川宿はもう少し進んだところにあるようだ。
第一京浜から京急線に沿って左に折れ、八ツ山橋でJR線を跨ぐ。京急に乗ると、品川を出てすぐに急カーブを曲がっていくのがこの場所だ。レールと車輪の擦れる音が響く。赤い電車はゆっくり通り過ぎていく。
八ツ山橋を渡り切るとすぐに京急の線路を渡る。そして程なく、品川宿に入った。
品川宿はまだこの先も続いてそうだった。折角だからまた今度明るいうちに訪れることにしよう。
日本橋から品川まで、見知った街であるのに、初めて知ることばかりだった。この先、訪れたことのない街であればきっと尚更…
つづく。会社員の東海道53次旅行記・東京~京都完全踏破②【品川~横浜・神奈川】 - 旅の記憶