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2日目 さよなら東京
2021年2月7日(日)の正午、私は再び京急・北品川駅に降り立った。一週間前、私は旧東海道を日本橋から品川まで歩いた。それからというもの、仕事をしている時は、東海道のことで頭がいっぱい。帰宅して寝るまでの僅かな間も東海道の地図をパラパラめくり、これから歩く場所のことについて想像を膨らませていた。
コロナ禍の日常は、悪いことばかりではない。気が乗らない予定が休日に入ることはないのだ。週末、また歩きたいと思えば、邪魔されることは何もない。
品川宿を出ると、次の宿場は川崎だ。そう、もう東京を出てしまうのだ。東海道を歩くという壮大な計画はもとより、歩いて東京を出ることなんてそうはない。緊急事態宣言中に一度だけ、暇を持て余し、家のある世田谷から川崎まで歩いたことはあるけれど。
北品川の改札は、旧東海道に面している。さあ、歩き始めよう。品川宿内の東海道は、昔のままの道幅だそう。歩き始めてまず目に留まった一心寺。案内板を読んでみる。安政2年、時は西洋列強の押し寄せる時代。台場の造成や開国条約、宿場の住民たちの繁栄を願って井伊直弼が開山したと書かれていた。台場の建設に伴う、大量の土などの資材の搬出のルートだったらしく、お台場と品川は深いつながりがあるようだ。少し歩くと、品川宿本陣跡と碑の立つ公園があった。東海道を歩いて初めて知ったことだが、本陣というのは宿のことだ。それも一番位の高いもので、公家や大名などの宿泊場所。この先、通る宿場にも必ず本陣は存在していた。宿場内には、本陣、脇本陣、旅籠と格の高い順にそれぞれ宿が整備されており、本陣が予約で一杯の時は、脇本陣に大名なども宿泊したそうだが、逆に空いている時は、庶民も脇本陣に泊まることができたそうだ。数歩歩けば新しいことを知っていく。面白くて、すぐに立ち止まる。なかなか前に進まない。目黒川を渡る。ここで地名が北品川から南品川へ変わった。並走する京急線は新馬場駅が近い。川沿いにあるのは荏原神社。花を咲かせている寒緋桜を見て、春が近づいていることに気付く。
北品川駅から1キロは歩いただろうが、宿場が終わるような気配はない。想像をしているよりも、昔の宿場は大きいようだ。京急の青物横丁駅前を通り過ぎるが、まだ東海道沿いは賑やかだ。どこまでが旧宿場の区間なのだろう。品川の名前を冠した寺院があったので覗いてみる。しかし、"しながわでら"ではなく、"ほんせんじ"という名前だそうだ。品川という地名はこのお寺が由来らしい。平安時代前期の開創というから驚く。宿場になる前から栄えていたのだろうか。それとも、そもそも栄えていたから道が通り、宿場になったのだろうか。ふらりと寄ってみると、とんだ歴史的な場所に巡り合うので、いちいち一驚を喫する。この梵鐘は、19世紀にパリ万博に出展されたのだとか。それだけでも面白い話なのに、その後行方不明になって昭和5年にスイスで発見されて遥々戻ってきたそうだ。地名にはいつしか、大井と付くようになった。歩き始めて一時間、立会川を越える。この辺りまで来るとだいぶ道沿いは静かな雰囲気になってくる。旧東海道は、この先で再び第一京浜に合流する。その手前にあった小さなお墓のようなこの場所は、江戸時代の刑場だった。鈴ヶ森刑場。人通りの多い街道沿いに刑場を作ることで、見せしめとしていたらしい。刑を執行していたであろう痕跡にはそれぞれ説明があり、ここでこうやって磔にして刺しただの、火あぶりにして殺しただの恐ろしいことが書いてある。罪人であったとはいえ、さぞ苦しかっただろう。お線香をあげることができる。パンフレット、線香、カセットコンロ、とかなり無造作に置かれていて少し可笑しい。カセットコンロで着火してみたが、太陽光の下だと、炎がほぼ見えず、少しばかり熱い思いをする覚悟を決める必要があった。品川駅前で分かれた第一京浜に再会。この辺りで品川区から大田区に入る。景色も変わり、都心を離れつつあることを実感する。平和島駅の近くで、また旧東海道は路地に入る。美原通り商店街というらしい。品川は江戸時代後期から海苔の養殖が始まった場所。1964年のオリンピック前まで生産がされていたとか。まだ、海苔を販売するお店を何軒か見かけた。この美原通りにある中華屋で昼食を。少し汚いくらいの方が地元に愛される名店で美味しいかと思い入店するが、許容できる汚さを越えていた(随分先の四日市でも同じ過ちをしてしまうことになる…)。語弊があるかもしれないが町中華は少し汚い方が美味しいことが多分にある。されど、少しでも的を外してしまうと後悔する。それなのにまた、知らない街でトライしてしまう…中華の魅惑たるや。今回は海苔でも齧ればよかった。再び旧東海道は第一京浜と合流し、すぐに梅屋敷。もう蒲田も近い。東海道から少し逸れて、梅屋敷の商店街を歩いてみる。静かで住みやすそうな下町だ。昔、タモリ倶楽部で見た琵琶湖という喫茶店があるということが、唯一私の知っている梅屋敷のこと。間も無く、京急蒲田の駅前へ着く。京急空港線の高架線をくぐる。京急線だとあと二駅で東京は終わり。東海道は、国道1号線やJR東海道線が並走しているのかと想像していたが、ここまでずっと、国道15号線と京急とほぼ同じ場所を辿ってきたのは、意外だった。沿道にトランプタワー。住所として書くのは恥ずかしくなかろうか。京急蒲田の次の駅である雑色(ぞうしき)駅前。各駅しか停まらないのに、アーケードのついた大きな商店街を擁している。商店街を彩る造花に郷愁を覚える。雑色の少し先の六郷神社。狛犬の顔が独特だ。少しシーサーにも似た顔付き。
この先、少しずつ道の勾配は上がり、次第に視界が開けてくる。前方にビルは無い。ついに多摩川、さよなら東京。県(都)境を跨ぐと、京都まで歩き切りたい気持ちが強まる。この辺りで決心はついていた。神奈川県川崎市に入る。多摩川の土手沿いを走る京急大師線が走ってきた。橋を渡りきるとすぐに川崎市街に入る。そしてここは東海道二番目の宿場、川崎宿。数々の案内があり、宿場の時代のことを知ることができる。本陣は跡形もなかったが、跡地には案内があった。本陣の家主である田中休愚という人が、多摩川の渡し(橋はかかっておらず、船で渡していたらしい)の権益を川崎のものとして、宿場を貧困から救ったのだそう。それまでの川崎は江戸に近く宿泊利用が少ないこともあり相当困窮していたらしい。今や日本6番目の人口を擁する150万都市・川崎も、貧しい宿場からのスタートだったようだ。
川崎駅前から延びる市役所通りを渡る。寄り道したこともあり、この時点で既に16時半。2月なのであと1時間半くらいすると真っ暗だ。進むか止めるか、迷う。
金融機関のシャッターにも安藤広重の川崎の絵が描かれてたりと、案外川崎は東海道推しだ。
まだそんなに疲れていないし、次の神奈川宿まで進もうか。
川崎駅前の賑やかさも次第になくなり、宿場の外れへ。これより先は八丁畷の一本道と案内がある。地名、そして駅名にもなっている八丁畷(はっちょうなわて)は、八丁(約850メートル)のまっすぐな一本道という意味で、つまり東海道が真っ直ぐ延びていたことを意味するそう。今でも、鶴見川手前までまっすぐだ。空をぼんやり見上げて歩く。道が狭く、身体スレスレで車に追い越され、我に帰る。鶴見市場の駅近く、見たことのない複雑なスクランブル式交差点。鶴見川を渡る。川を境にして横浜市に入るのかと思いきや、既に少し手前で横浜市に入っていたらしい。
川面に移る夕焼け空が綺麗だ。もつ肉をあてにビールを飲みたい。地元の人で盛況な店を通り過ぎる。大衆・立飲の暖簾をくぐりたくなる。
推古天皇の時代に創建されたという古社・鶴見神社を過ぎると、東海道は、一気に駅前の商店街へと顔を変えた。鶴見はJRと京急が走る。駅前にはタワーマンションが聳え、立派だ。この時点で17時40分、完日が暮れてしまったが、次の宿場・神奈川宿まで歩ききりたい。タワーマンションの間から吹くビル風が強烈。
少し歩くとJR鶴見線の国道駅に来た。昭和5年に開業した駅だそうで、その当時の人々の声や匂いまでしそうな雰囲気。この駅舎のどこかに空襲の跡すら残っていると聞く。ホームはこのアーチ状の通路の上を走る。古い遺構のようだが、現代の都市部の駅と構造はもはや同じなのが興味深い。真冬の風が国道駅を吹き抜けていき、寂寥感を覚える。しばらく進むと生麦事件発生現場という案内が住宅街の中にあった。薩英戦争のきっかけとなる大事件の現場は東海道だったようだ。余談だが、ずっと先の大津でも、ロシアのニコライ皇太子が警察官に斬りつけられる大津事件の現場が道中にあった。その話はまたずっと先のブログでご紹介したい。
キリンビールの横浜工場の目の前を通る。
国道駅で済ませたのだが、寒すぎてまたすぐにトイレに行きたくなる。第一京浜を歩きながら(旧東海道は再び第一京浜に合流した)、近くにトイレはないか、道沿いにある看板に目を泳がせてばかりいた。国産トマトケチャップの製造を初めて生産した場所という案内があったが、もうどうでもよかった。この写真を見返すだけで、尿意と寒さに耐えながら歩いていた時のことを、ありありと思い出す。東海道中最初の苦難であったことは間違いない。国産ケチャップの記念すべき場所から20分、時刻は19時10分。ようやく神奈川宿へ。浦島町は、先週東海道を歩き始める前に、マンションの内見をした場所。
無事神奈川宿に着くことができたので、2日目はここまで。日本橋から29キロ歩いてきたようだ。東神奈川駅近くのラーメン屋で夕食を済まし、東京へ帰る。後日、ベランダにて。川崎宿のクラフトビールを飲んで、東海道中に思いを馳せる…。