2021年2月26日金曜日、9時過ぎだったと思う。華金と呼ばれるプレミアムな時間はとっくに過ぎてしまった頃、勝手口の重い扉を開け会社を後にする。目の前の小さな街道をそよぐ風に、つんざくような寒さは無かった。
今日のリュックはいつもより重い。なぜなら一泊分の着替え、東海道のガイドブック、そしてめでたい場に出席するためのスーツを入れているからだ。23時、平塚駅に到着。人の少ないボックスシートは横浜の夜景をぼんやり眺めるには最適だった。1月末に日本橋から始めて、先週平塚まで歩ききったばかり。徒歩でここまで来た私にとって、1時間半の移動はあっという間だった。
明日の15時から仲の良い同僚の結婚式が表参道である。しかし1月末から毎週東海道を歩いていた私は、この大事なルーチンを次週まで我慢することはできなかった。考え抜いた末、平塚に前泊し、午前中小田原まで歩こうと決めた。我ながらこの決断は常軌を逸していると思う。小田原に着いてすぐに移動が出来るように、重い荷物を背負いながら21キロの行程を歩くことをもやむなしと思っているのだから。23時10分、平塚駅南口。栄えていない方の出口だ。セブンで夕飯を買い、ホテルへ。この日はグランドホテル神奈中に宿泊する。ここは日本一の売上高を誇る巨大バス会社”神奈川中央交通”が運営しているホテル。神奈川中央交通、通称”神奈中”の本社は平塚にあり、お膝元。
宿へ着き、ビールを飲み、寸時の華金で一週間の労働を称え、就寝する。明日は早いから。翌朝7時、ホテルから南の空を眺める。なんと清々しい朝なんだ。
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前回の記事(横浜・戸塚~平塚)はこちら↓
また、今回の行程の詳細はこちら↓
5日目 青空と海の湘南・小田原
朝日に照らされる平塚駅。朝早いのに、既にロータリーは神奈中で一杯。駅前にある都まんじゅう。開店に向けてせっせと饅頭が焼かれている。私はこの東海道歩きで初めて平塚を訪れたが、想像していたより遥かに都会的な印象を持った。東京・横浜のベッドタウンという雰囲気はなく、むしろ地方の県庁所在地のような風格がある。駅ビル、駅前の大通り、そして道沿いのビル群、全て立派だ。そして、格式高き平塚の街を神奈中が我が物顔で走り抜けていく。平塚駅周辺の繁華街は、実は旧平塚宿ではない。この近辺は駅が出来て新たに賑わうようになった地区になる。昔からの繁華街、すなわち旧平塚宿は駅から500メートルほど行った先だ。今では街はずれの感もある場所に建つ江戸見附の案内。江戸見附とは江戸側の宿場への入り口という意。現在の中心部と旧宿場が少し離れることになるのは鉄道が大きく関係している。東海道線が開通した際、機関車の煙を嫌った住民たちが、宿場から離れた場所に駅を作らせたということらしいのだ。そういう経緯で、時が経つにつれ市街地は駅周辺へ移ってしまい、宿場は廃れてしまったということらしい。街を守ろうとした結果、廃れてしまったなんて皮肉な結果だ。地名にも残る、旧宿場の名残。宿場であった面影は感じられない。向こうに見えるのは高麗山。この先、東海道はこの高麗山を左手に回り込むように進む。江戸見附から約20分、あっという間に京見附(京都側からの宿場の入り口、つまり江戸から歩いて来ると宿場の出口となる)に到着した。明治に入り、鉄道がどれだけ人々の暮らしを変えたのか、肌で感じられる場所だった。ここで簡単に今回の行程を示す。平塚から小田原までの21キロ。途中の宿場は平塚宿、大磯宿、小田原宿となる。大磯で一気に相模湾近くに出て、海岸線と並行して小田原まで進む。見てのとおり前方には箱根の山々が聳える。平坦な道中は今回までで、次回は遂に箱根の峠越えが控えている。平塚宿の京見附からすぐ、大磯町に入った。大磯といえば海と別荘地のイメージ。道沿いにある相模貨物駅。そして、花水川を今や引退した185系が行く。高麗山をぐるっと迂回すると、静かな田舎道が伸びている。延々と続いてきた東京・横浜のベッドタウンはついに終わったようだ。東京とは無縁とでもいうような静かな街並み。山の麓へと続く高来神社の鳥居。国道から斜めに逸れるような形で東海道は旧道に入る。街道が整備された当時の松並木が今でも続く。海風を木々がさえぎっていて静かだ。当時の景色とあまり変わっていなそうな道を行く。安藤広重の描いた大磯の絵は雨の景色。これには虎御前という女性にまつわる次のような話があるらしい。
歌舞伎で有名な曽我兄弟(私は歌舞伎に疎く全く存じ上げない…)は、富士の裾野で親の仇をとった後、旧暦5月28日に亡くなった。兄である曽我十郎の愛人であった虎御前は大磯に住んでおり、愛人の死を知り、深く悲しみ泣き腫らした。
この話から旧暦5月28日(現在の6月下旬~7月中旬)に降る雨を「虎が雨」というようになり、安藤広重は虎御前の故郷である大磯を描く際、「虎が雨」を降らせているらしい。この絵を初めて見た時、海辺の街をなぜ雨の景色として描くのだろうかと甚だ疑問であったが、なるほど合点がいった。斜めに伸びる松の大木。車だけでなく歩行者でさえ注意がいる。旧道から再び国道1号線に合流して、大磯の中心部に入る。時刻は8時半、出発から約1時間半で4キロしか進んでいない。少しペースアップが必要だ。さっきの小道はやはり風から守られていたのだろう。1号線に出た途端、海から強風が吹いてくる。気温はそこまで低くなかったが、風のせいで体温がどんどん奪われていき、気付くと尿意と戦い、トイレを探している自分がいた。
道中にある老舗の和菓子屋さん新杵(しんきね)。ここで名物の西行まんじゅうと虎子まんじゅうを買ってみた。吉田茂や島崎藤村もここの和菓子を好んでいたらしく、食べるのが楽しみだ。強風の中、寒い寒いと思いながら食べるのは勿体ない。家に帰って温かいお茶でも飲みながらいただくことにする。湘南発祥の地という石碑がある。中国・湖南省の洞庭湖の南側は”湘南”と呼ばれており、この辺りの景色が中国の湘南に似ているからそう呼ばれるようになったらしい。中国の湘南は湖、日本の湘南は海。どれくらい似ているものなのか気になる。湖南省は中国南部で水墨画に描かれるような風光明媚な地域。湘南発祥の石碑の隣には、俳諧の道場であった鴫立庵(しぎたつあん)という美しい建物が残る。鴫立庵という名の由来は、”心なき身にも あはれは知られけり 鴫立澤の 秋の夕暮れ”という西行法師が大磯で詠んだとされる歌だそう。だから新杵さんにも西行まんじゅうがあったんだ。
松並木を、ペースを上げて進む。交通量の多い国道一号線だが、往時の松並木は大事にされている。日本橋からついに70キロ、このキロポストは励みになる。海岸線は見えないか、チラチラと海の方向を眺めるも、結局見ることが出来ず大磯は終わり。お隣の二宮町に入る。海が近い雰囲気はあるが全然見えない。しかし松並木と潮の香りのする風で海沿いの雰囲気は感じられる。現在の主要道から斜めに旧道が伸びていくパターンが道中多い。地図を見ていなくても、”こっちが旧道かな”と気付ける能力が備わってきた。
前回、茅ケ崎付近を歩いていると、綺麗に富士山が前方に見えていた。一方、今回の道中はあまり富士山が見えないなと思ったがそれもそのはず。箱根の山が目前まで迫っているからだった。前方に聳える箱根。次回はあそこを徒歩で登るのか…。想像より標高の高い山並みが見えて不安になる。旧道に入ったり1号線に戻ったりしながら、ついに小田原市へ。境界が複雑に道と交差しているようで、再び二宮町に入り、そしてすぐに小田原市に再び入った。東京に住んでいると、小田原という街はもう遠い場所だ。一日かけて遊びに行く場所。徒歩でここまで来たことに感心するのも束の間、道路標識が現実を突きつける。小田原11キロ、沼津49キロ、静岡104キロ…。小田原市に入ったものの、中心部はまだ11キロも先、つまり今やっと折り返しか…。中途半端な場所で時間切れになりたくはない。重いリュックが負担になりながらも、歩を早める午前10時30分。
この辺りから暫く緩やかなアップダウンが続いた。何度目かの坂を登り切った時、視界が開ける。ついに海が見えた。道中初めて見た海だ。大磯の時より気温も上がっていて、春めいた海風を全身に受ける。体いっぱいに潮風を吸い込み、伸びをする。海が見えた嬉しさで、ついつい声が出てしまう。海に近づいたり、離れたり。前方に私の前をずっと歩いている若者がいる。もしや。同じ目的を持った人か。ついに現れたかと思ったら、ただのポスティングのバイトをしている人だった。東海道を歩いている様子の人はいそうでいない。ノスタルジックな駅舎の国府津(こうづ)駅。国府津まで来ると、個人的に関東の端まで来たなと思う。なぜなら、国府津駅から出ているJR御殿場線(御殿場を周って沼津へ出る路線)の管轄はJR東日本ではなく、JR東海だからだ。国府津駅には見慣れた首都圏の通勤電車だけでなく、静岡や名古屋で見かけるオレンジのラインが入った電車がいるのだ。東海地方に間もなく足を踏み入れる、そんな気持ちになる。
ここで、あまりにも疲れたので休憩。リュックをおろして海を眺める。急ぐためにもここで休息を取ることが大事だ。国府津を過ぎると古い建物が残る街並みになった。箱根登山バスが向こうから走ってきて、小田原に来たことを実感する。神奈中の縄張りが終わったのだ。とはいえ、神奈中も箱根登山バスも同じ小田急グループだから、小田急勢力圏にずっといることになるのだが。酒匂川を渡る。ここを渡るともう小田原の中心部になる。江戸時代までここに橋はなく、渡しであったそうだ。交通の要衝はリスクにもなる。技術力の問題ではなく、あえて橋はかけないという事が防衛上必要だったんだろう。
橋から北西の方向を眺めると、箱根の山々と、少しだけ覗く富士山の頂が見えた。次回(来週)はあの山々へ…。酒匂川を渡ると、車線も増え、辺りの雰囲気も変わった。小田原城の案内もある。中心部に、そして宿場へも近づいてきた。小田原宿にも江戸見附の石碑があった。そしてここは丁度日本橋から20里、つまり約80キロ。江戸見附を過ぎると、東海道は国道1号線とは離れ、一本裏の道になる。そしてここは名物の名前を冠した”小田原かまぼこ通り”と名付けられていた。かまぼこの工場や販売するお店がぽつぽつと立ち並ぶも。人通りはほぼ無い。駅周辺の観光客はここまでは来ないのだろうか。宿場の中心部に到着。なんとか結婚式には間に合いそうだ。宿場の総鎮守である松原神社で、この日は終了。時間に追われながら、重い荷物を持ちながらだったが、青空の下、朝日と海風を浴びて歩くのはとても気持ちが良かった。
時刻は12時40分。東京までどうやって戻ろうか。小田原はJR東海道線の主要駅であることはさることながら、小田急線の始発駅でもある。結婚式の会場は表参道。小田急は東京メトロ千代田線に直通しているし、表参道は千代田線だし、ということで小田急で帰ることに決めた。そして小田急線で帰る最速の方法は……。私は最高の帰路を閃いた。そうだ、ロマンスカーで帰ろう!
早速時間を調べる。お昼を小田原で食べて、良いタイミングのロマンスカーはGSE、つまり展望座席がある車両だ…。と、道沿いに立ったまま、ロマンスカーの展望座席を予約する。帰り道の行程まで楽しめると旅の完成度がかなり高くなる。ロマンスカー乗車までの間に、小田原駅で昼食。小田原までの踏破を称えて海鮮丼を食す。付け合わせの蒲鉾も嬉しい。幸せの味がする。
食後、大急ぎでスーツに着替え、ロマンスカーにギリギリで駆け込む。小田原駅でロマンスカーの写真を撮ら余裕なんて無かった。さよなら小田原。次にここに来る時は箱根越えだ。ロマンスカーは都心へどんどん連れ戻してくれる。後方の展望席しか空いていなかったが、それはそれで良かった。名残惜しい箱根や富士山、そして小田原の景色を随分と眺めることができたから。14時10分、ロマンスカーは町田駅に到着した。GSEは個人的に一番好きなロマンスカーだ。町田からは一般の列車で。複々線化が完成して、スムーズになったなと感じる。
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素敵な結婚式の後、自宅にて。左が虎子まんじゅう、右が西行まんじゅう。
次回につづく⇨会社員の東海道53次旅行記・完全踏破⑥【箱根八里・前編】 - 旅の記憶