15日目 東海道"半分"踏破記念日
2021年5月9日(日)、つい4日前までゴールデンウィークで和歌山と徳島を旅していたが、週末はまたライフワークの東海道を。
振り返ると、私は1月からゴールデンウィークまで、毎週末欠かさずに東海道を歩いていた。4ヶ月も毎週末欠かさずに歩いてたなんて。
前回歩いた時から2週間も間が開くのはこれが初めてだったが、歩き始めて暫くするとすぐに感覚を取り戻した。一見同じような景色の中を進んでいるけれど、気づかないうちに小さく風景が変化していく。この連続性を楽しめるのが徒歩旅行の良さだと改めて実感した1日となった。
前回の記事はこちらから→ 会社員の東海道53次旅行記・完全踏破⑭【島田〜金谷〜日坂〜掛川】 - 旅の記憶
10時半、JRで掛川に到着。前回歩いて着いた時は真っ暗だったから、青空の下の街並みは初めて見る。街路樹の濃い緑が気持ち良い。なんだか日差しが強くなってきた。歩き始める前に、掛川城へ寄り道。
掛川城へは駅からの一本道を進む。道はなだらかに上り坂で、城は丘の上にあるような形。今川氏が家臣の朝比奈氏に築城させたのが始まりだそう。
後の城主である山内一豊の像が出迎える。
今建てられているのは1994年に復元されたもの。木造として復元された天守としては日本初なのだそう。木造で城を復元するようになったのは案外最近のようだ。
天守からの眺めはとても良い。彼方に遠州灘もちらりと見える。
西の方角にも目をやる。きっと歩いてきた小夜の中山もどこかに見えているのだろう。
天守の隣には御殿。この御殿は江戸末期のものがそのまま現存している貴重なもの。大胆に開け放たれた格子戸からは5月の爽やかな風が入り込む。
掛川も祭りが盛んなようだ、島津の大名行列を見てみたい。
見応えのあった掛川城を後にして、市街地から歩き始める。時間は既に11時半、食事処を探しながら。
1キロも歩いていないが、美味しそうなお店に入り、高校生みたいなガッツリ食べる。歩く時はこれくらい食べても夕方にはお腹が空く。
将門の乱の後、平将門含めた19人の首が葬られたという十九首塚。静かな住宅街の一画に佇む血生臭い歴史。
国道1号線は日本橋から230キロ。随分来たものだ。このキロ表示は毎回励みになる。
掛川の市街地を抜け、天竜浜名湖鉄道の高架をくぐって。
松並木の木陰を歩いて。
静かな道を進んでいく。
掛川の市街地から1時間程歩いたところに仲道寺というお寺があった。
仲道寺は江戸と京都の中間地点にあるからこの名がつけられているらしい。半分来たという感慨深さと、まだあと半分あるという果てしなさ、どちらの感情も湧き上がる。先ほど歩いた掛川宿は53ある宿場のうちの26番目。確かに宿場の数からしてもほぼここが中間地点だ。
それにしても距離を正確に把握して宿場を均等に設置していること、お寺も江戸〜京都間の真ん中に位置することを把握していたことに感心する。仲道寺はあまり手入れされていないのだろう、境内は荒れていて蜘蛛の巣で何度も行く手を阻まれた。
水が張られた田んぼと、松並木が続く。何でもない景色なのかもしれないけれど、これこそ歩いて進むから気づける絶景なのかも。
掛川と袋井の間にある、間の宿・原川を記した看板を読んで、先に進む。袋井市に入った。
東海道中膝栗毛に紹介されたことを示す案内。袋井は東海道について丁寧に示してくれる看板がこの後もよくあった。
この先の袋井宿は江戸からも京都からも27番目の宿場、つまりど真ん中。
小学校までどまん中であることをしっかりと推している。
この辺りは遠鉄グループのバス路線らしい。気づくと静鉄エリアから遠鉄エリアへと移っていた。浜松文化圏に入ったのであろう。
小夜の中山で乾きの死闘を乗り越えた後訪れたギャラリーで、歌川広重の東海道五十三次は人気を博したため、シリーズ化され、色んなバージョンがあることを知った。この案内板にある絵は隷書版といわれるシリーズのもの。遠州凧が上がっていれば今でも似たような景色になりそう。
これより袋井宿、掛川から10キロ歩いた。
どまん中茶屋という観光パンフレットが置いてある場所があった。袋井はやっぱり"どまん中"を推している。ありがたいことに冷えたお茶をいただいた。新茶なのかな、甘い香りで、爽やかだ。
ラジオ体操会場まで"どまん中"を推している。袋井の子供達は東海道の真ん中で早起きをしてラジオ体操をしている。
東海道に交差する道に、秋葉線軌道跡と気になる案内。遠州森(天竜浜名湖鉄道の駅)と袋井を南北に結んでいたらしい、静鉄秋葉線。1962年と、だいぶ昔に廃線になっているようだ。調べてみると開業は1902年とかなり古い。東海道線に野菜やお茶を運ぶために馬車鉄道として作られたらしい。
袋井は静かな町、街道沿いは小さな商店街になっていた。16時を過ぎてもまだまだ青空が広がっている。5月も半ばを過ぎると日が長くなったのを実感する。
30分程歩いて、磐田市に入る。少し上り坂に差し掛かる。
江戸の小道と矢印付きの看板。この道だけ落ち葉が路面を覆っていて人の通った気配がない。え、こっち…?改めて地図を確認する。江戸の小道が私の進む道のようだ。
鬱蒼とした道は5分ほどで終わり、小さな広場に出た。大日堂と書いてある。かつてここから徳川に攻め入ってくる武田勢の動向を家臣の本多平八郎が見張っていたらしい。(この描写、どうする家康(執筆時点である2023年の大河ドラマ)で出てきた)
大日堂を過ぎると、今度は古墳が姿を現す。古墳の周りには新しい家々が並んでいて、かつての豪族の墓の周りは、子どもたちの遊び場になっていた。
5時半を過ぎるとだいぶ太陽も西に傾いてきた。さっき登った分、下る。
浜松が近い、そして磐田の街並みが見えてきた。
28番目の宿場、見附の入口。磐田宿ではなく見附宿というのは、西から旅した人たちが、ここで初めて富士山を見つけたからという説があるらしい。もうこの辺りで富士山とはもうお別れということか。辺りを見渡しても、富士山は見えなかった。
東海道沿いにある淡海國玉神社の隣にある旧見附学校。明治8年築の小学校のようだ。可愛いとんがり屋根が目を引く。
淡海國玉神社は狛犬ではなく狛兎。
どうやら因幡の白兎の神話に関連しているらしい。
そうこうしているうちに19時が過ぎて、あたりは真っ暗に。軽い尿意を抑えつつ急いで磐田駅まで向かってこの日は終了となった。19キロの歩き旅は今日のところここでおしまい。とうとう東海道歩き旅は次回から後半線に突入、嬉しい"半分"踏破記念日はこうして穏やかに幕を閉じた。
つづく。