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3日目 坂の街・横浜
徒歩旅行日:2021年2月14日(日)
正午、私は東神奈川に向かった。1月末に歩き始めてから、毎週日曜日は東海道を歩いている。東京の冬の良いところは、雨が降らないことだ。天気予報を気にせず、日曜日歩こうと思いえば必ず歩くことができる。日本海側の大雪のニュースが嘘のような、カラッとした青空がこの日も広がっていた。
先週は品川から、東神奈川駅近辺の神奈川宿まで歩いた。県名にもなっている神奈川という地名はこの辺りのこと。神奈川県横浜市神奈川区と、住所は神奈川の表記が多くなる。
駅のコンコースには歌川広重の描いた神奈川宿が飾られている。今の横浜も好きだが、描かれた街並みの横浜も見てみたかった。旅人に声を掛けている女性や東京湾を行く帆船がリアルだ。
地図上だと車通りの多い、第一京浜が東海道と記載されていたが、一本入った路地の方が、松並木があり寺院が立ち並んでいて、街道らしい景色。
高札場といものが復元されていた。幕府や領主からの定めがここに記されていたのだとか。これから進む各宿場でも高札場跡の案内や、復元されているものがあった。
神奈川宿内の成佛寺。ヘボン式ローマ字を作ったジェームス・カーティス・ヘボンはこのお寺の本堂に住んでいたらしい。江戸末期に来日したヘボンは医師でもあったらしく、生麦事件の負傷者の手当ても行った。そして、明治学院の創設者でもあったというから驚く。日本の近代化にかなり貢献した人のようだ。
路地は滝野川に突き当たる。ここで進路を変え、一旦賑やかな第一京浜に戻る。横浜駅が近く、頭上には高速道路。横浜の中心部に入ってきたのだ。
第一京浜から、横浜駅前のビル群が良く見える。高層マンションの合間にひっそりと伸びる宮前商店街、これが昔の東海道だ。この辺りは京急の神奈川駅の程近く。
宿場町らしいデザインになっているという神奈川駅前を過ぎ、京急とJRを跨ぐ。第一京浜や線路は南西に進み、横浜駅へ。一方東海道は進路を西に変え、坂を登ることになる。
現在の横浜駅付近は埋め立てによってできた土地だったのではなかったか。だから、きっと東海道は昔の地形に沿って坂を登っていくのだろう。きっと海沿いまで山がせり出し、浮世絵のような景色であったに違いない。前方に見える三宝寺、高低差のある場所にお寺を作っているため、基礎がすごいことに。まるで高速道路の橋脚のような土台の上に建っている。
坂道を登っていると、袖ヶ浦と書かれた案内を見つけた。この辺りが冒頭に紹介した浮世絵に描かれた場所だそう。今や、周りのビルしか見えないが、きっと当時は目前に迫る江戸湾を眺められたに違いない。
袖ヶ浦にある田中家という割烹料理店は、先述した浮世絵に「さくらや」として描かれているそうだ。そして、坂本龍馬の妻であるおりょうもここで仲居をしていたらしい。
しばらく進むと、再び平坦な場所に出る。環状一号線沿いを歩いていると、浅間下交差点で視界が開けた。
横断した新横浜通りの先に聳ゆるランドマークタワー。横浜を象徴するかのような景色につい、見入る。まるで絵葉書のようだ。海は見えていないのに、港町の雰囲気を感じとれる気がするのは何故だろう。
高台にあった浅間神社からも、横浜が一望できた。
神奈川宿は横浜市神奈川区であったが、袖ヶ浦の坂道が終わると、西区に入っていたようだ。そして浅間神社を越えて暫くすると保土ヶ谷区となった。しばらく右手は山、左手は住宅地という景色を進んできたが、保土ヶ谷区に入ると左右どちらも視界が開け、商店街に入る。
ここは洪福寺松原商店街。”ハマのアメ横“と称されているらしく、かなり規模が大きく、大賑わいだ。そして4番目の宿場・保土ヶ谷宿となる。恐らくこの辺りからかつての宿場が始まるのではないだろうか。
東海道の話から逸れてしまうが、私はLEDではない電球が使われている古い信号機が好きだ。好きだからと言って別にメーカーだ、仕組みだに詳しくはない。ただ、シルエットの丸み、電球が目のように見えて温かい表情に感じられるのが好きだ。共感されることはほぼないと思うが。横浜はそういった古い信号機が何故だか多い。自治体によって信号の新旧の状況はだいぶ異なるようだ。今後も、道中の素敵な信号を紹介する時があるかもしれないから、是非柔和な表情を感じ取っていただきたい。
帷子川を越え、相鉄線の天王町駅前に出る。市営バスだけで横浜18区全区を巡った時のルートと重なる(その時は一駅隣の星川駅付近に来た)。あの時もコロナ禍で退屈な日々を打破できないか考えた試みだったが、まさか今度は歩いて来るとは思いもしなかった。この辺りには市バスか徒歩でしか来たことがない。(↓市バスで横浜を巡った話。)
東海道線が旧東海道を横切る。この踏切を越えると、やっと東海道は東海道線沿いに、国道一号線沿いに暫らく進む。
国道1号線に合流。この付近に保土ヶ谷宿の本陣の跡があり、当時の門や蔵が残っていたみたいだが見落としてしまった。4番目の宿場・保土ヶ谷宿もこのあたりで終了。次の宿場は戸塚宿。
国道一号線から、旧道は斜めに逸れる。
静かな旧道を相鉄バスが走っていく。目にするバス会社が変わると、地域の移ろいを感じることもできる。これから、旧東海道は権太坂(ごんたざか)という、一つ目の難所を迎える。東海道線も山越えをすることができず、清水谷戸トンネルとなっており、これは明治20年に完成したもので、現役のトンネルでは最古らしい。
権太坂が始まった。息切れはするが、難所というほど辛くはない。きっと昔に比べれば道が良くなっているのかもしれない。権太坂の名前の由来には、旅人が坂の名前を耳の遠い老人に尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い込んだ老人が「権太」だと答えたからという逸話があるそう。
標高が上がるにつれ、見晴らしが良くなってくる。
気付けばランドマークタワーが遠くになっている。間近に見えた時から約1時間半。歩き続けて遠くに来た。
権太坂を登りきり、境木という町に入る。消防団のシャッターには境木が描かれた浮世絵。
この辺りは宿場では無く、「立場」と呼ばれていた。立場というのは宿場間が長い際に、また道中が山間などで厳しい際に休憩場所として整備されているところ。その名残りなのだろうか、周りに駅は無いのに立派な商店街が忽然と姿を現す。この辺りも市バスで旅した際に訪れたが、その時は山の上に商店街が唐突に立ち並んでいるのが不思議でならなかった。
上りきったから今度は下り坂だ。焼餅坂を歩く。焼餅を売る茶店があったからそう名付けられているらしい。
一里塚の後。街道沿いには一里(約4キロ)毎に一里塚というものが設けられていた。盛り土の上には榎や松が植えられる。実際に歩いてみると、この一里塚は励みになる。一里という距離は丁度良い達成感が感じられる。
境木からバスだと東戸塚駅の方へ、賑やかな方へ向かうのだが、東海道は栄えている場所を避けて続いている。
駅からさほど離れている訳ではないが景色はだいぶ穏やか。随分空が広くなった。
無性にお腹が空いてしまい、海老天丼を食らう午後4時。疲れと背徳感が相まって美味しい。堪らない。食欲と同時に座りたいという欲求も満たす。坂の街を歩き続けてこれまでより格段に体力の消費量が違う。箱根の山越えが少し不安になる。
久しぶりに国道1号線に合流する。夕方、うろこ雲と幹線道路。帰路に着く車で混雑していた。交通量が多いのに道が狭い感じが、藤沢や鎌倉のイメージと重なる。もう戸塚区は藤沢の隣町だものね。
再び路地に入ると、かなり目立つ赤煉瓦造の建物。国内で初めてハムの製造を行った場所だという。ケチャップやらハムやら、横浜らしい発祥の場所が道中に続く。
この付近の地名にもなっている柏尾川を渡る。この辺りから5番目の宿場・戸塚宿か。
駅前にあった善了寺。まるでカトリック教会のような佇まい。通りから本堂まで少し坂道になっているのも素敵な雰囲気だった。
そして、17:20に戸塚駅に到着。この日はここでおしまい。駅前ロータリーには江ノ電バスが待機していて、湘南はすぐそこだと教えてくれる。次はとうとう藤沢、茅ヶ崎、平塚と進むことになるのだ。
この日は14.4キロ歩き、ほぼ横浜を縦断した。そして日本橋から43.4キロ歩いてきた。
つづく。旧東海道歩き旅 ④【横浜 戸塚~平塚】 - 旅の記憶