10日目 薩埵峠から春の便り
徒歩旅行日:2021年4月3日(土)
朝8時半。渋谷駅から見える空に雲は無い。冷涼な朝の風がホームの中に舞い込んでくる。ホームでの待ち時間、なんだか今日の街道歩きを祝福されているように思える気候だった。そして、この祝福されている感覚は、この後の道中もずっと続くのであった。これまできた道中の中で、一番心に残る景色に出会えたからだ。
先週、私は15番目の宿場町、静岡市清水区の蒲原(かんばら)宿に到着した(前回の記事→会社員の東海道53次 徒歩旅行記⑨【静岡 吉原〜蒲原】 - 旅の記憶)。東海道53次のうち3分の1の宿場を歩いて来たことになる。まだまだ道のりは長いものの、東京からもだいぶ離れた。行き帰りに時間もお金もかかるようになってきたから、今回初めて1泊2日で歩くことにした。まずは目的地、静岡市清水区・新蒲原駅へ向かう。まず、特急「踊り子」号で渋谷から熱海へ移動。8時36分定刻に渋谷を発車。車内にはスーツケースやゴルフの荷物を抱える熱海・伊豆方面への旅行者が多く見られた。9時56分熱海に到着。快適な踊り子号の旅はあっという間に終わり、普通列車へと乗り換える。熱海から40分ほど普通列車に揺られて新蒲原へ。駅から小道を通り旧東海道へ。集落に迫る山々には、見頃の桜が咲き乱れる。前回、ここに到着したのは雨の中、そして日没後であったので、古い街並みを初めて目にした。旧道の道幅は当時からあまり変わっていないのだろう。狭い道の両脇には古い家々が立ち並ぶ。なまこ壁の立派な家は商家のものだったはずだ。11時過ぎ、少し早いがこの先のことも考え昼食とする。鮨処やましちというお店で、名物・桜エビのかき揚げ丼。そして折角なのでとれたての生しらすも追加で食べた。どうやら蒲原では"イルカのすまし"という名物もあるようだったが見つけられなかった。恐らく見つけていたとしても気は進まなかったと思う。食事を済ませて少し進むと、旧五十嵐歯科医院と書かれた洋館を見つけた。気になるので中に入ってみる。この建物は、もともと町屋だったが1914年に歯科医院を開業するにあたり改装、増築したものだそう。中に入ると、丁寧に案内をしていただけた。治療を行なっていた場所は2階の窓際だそう。自然光を取り込むために南と西に開かれた窓から、燦々と光が降り注ぐ。微かに波立つ古い窓ガラスが懐かしい。「床に写る窓の影も波立っているのよ」と教えてもらう。外観は洋風だが、診察を行う場所以外の居住空間は全て和室であった。襖絵も見事。この時ちょうど、江戸時代や明治時代の古い雛人形が展示されていて、解説をしていただきながら見入る。周囲の家からの寄贈も多い。宿場町で財のある家が多いのだろうか、古いものも大層華やかで大きかった。奥にある部屋や中庭も見学し、気付けば50分近くも滞在してしまっていた。再び歩を進める。狭い旧道は2回直角に折れ曲がり大きな道に合流した。宿場を過ぎても古い造りの家並みが続く。家々の屋根が前面に出っ張っていて、2階の窓が外からだとほとんど見えない。これは出桁造り(だしげたづくり)というらしい。出桁造りの家々の屋根が、揃って道に向かって伸びている。JR蒲原駅前を通る。蒲原宿の最寄りは新蒲原駅。先に蒲原駅が開業したのだが、集落から離れているということで、おって新蒲原駅が設置されたそう。次の由比宿は蒲原宿から4.2キロほど。他の宿場間よりも距離が短い。由比宿の始まりとなるY字路に到達した。酒蔵もある。この宿場ゆかりの由井正雪にちなんだ「正雪」という酒を作っているそうだ。酒蔵から15分ほど進むと、その由井正雪の生家とされる染物屋があった。由井正雪は、慶安四年に幕府転覆を計画した"由井正雪の乱"を起こし、失敗して自刃した人物。当時のままのような店内で記念に手拭いを買う。東海道に関する施設が売りに出されていた。宿場内を暖かい海風が抜ける。見上げるともはや冬空では無い。常緑樹で青々とした山並みもまた温暖な気候を感じさせる。春埜製菓という和菓子屋で、江戸時代から伝わるというたまご餅というものを購入。この後に迫る薩埵峠ででも食べようと思う。途中、うさぎが近寄ってきた。古い家屋の残る、美しい漁村の風景。静岡らしい温暖な気候を体いっぱいに感じて歩く。そしてこれから越えなければいけない峠が少しずつ迫ってくる。振り返れば富士の頂。見下ろせば東海道線の由比駅。線路は峠越えはせず、国道とともに海岸線の縁を通る。
緩やかな上り坂が始まる。薩埵峠はもう近く、箱根以来2度目の峠越えは間も無くだ。斜面に咲く桜が満開だった。あまりに絵になる景色。たまらず早くもたまご餅を頬張る。少しずつ標高が上がり、見晴らしが良くなってくる。
海に向かって狭い路地が伸びる、そしてその向こうを東海道線が走っていく。山と海に挟まれた狭隘な土地にぎっしりと古い民家が連なっていて、由比の街はとても風情があった。歴史や文化も違えど、どことなくかつて訪れたイタリア・ジェノバの景色が思い出された。(イタリア旅行記・おいしいジェノバ - 旅の記憶)とうとう薩埵峠が始まった。"工事中 通り抜けできません"と書かれた看板があったが、「歩きなら大丈夫だよ」と道沿いの庭でくつろぐお爺さんに教えてもらう。眼下には駿河湾と行き交う車が見える。斜面を利用した蜜柑畑が続く。歩き進めるとその斜面を這うように取り付けられている農業用のモノレールを発見した。地理の資料集に載っていた記憶、本物を間近で見れて嬉しい。これは収穫したものを運ぶのか、それとも人も乗れるのか。富士山と、これまで歩いてきた沼津や富士の町がよく見える。海と松と満開の桜、蜜柑畑。絶景が続き、急勾配であることはさして気にならない。薩埵峠の入口から約20分で峠の頂上に来ることができた。歌川広重の浮世絵と同じ景色。峠を登り切って見る眺望は時を忘れるほど美しく、忘れられないものになった。良い時期に薩埵峠を訪れることができたと心底思う。かつてはこの峠道も整備されておらず、危険な海沿いを人々は行き交っていたそうで、親知らず子知らずの難所と言われていたらしい。今はまた、大動脈は海沿いへと戻ったが、それでもこの薩埵峠の道が如何に大事だったかが伺い知れる。峠を下りきり、次の宿場・興津が近い。偶然、東京メトロの車両が、東京方面へ輸送されているのを見た。これは貴重な光景なのかもしれない。時刻は16時手前、随分と日が長くなってきた。興津川を渡り宿場へ。興津宿に入ると、身延山道への道標があった。身延山は山梨県の富士川沿いにある。現在は富士からJR身延線が出ているが、かつてはここ興津から道が出ていたようだ。地図を見る限り、国道52号線が旧身延道に沿っているようだ。興津宿は身延への追分があるだけでなく、薩埵峠を控えていたこともあり賑わっていたらしい。今ではその面影はあまりなく、静かな街並みが続いた。道中にある清見寺は、幼少期の徳川家康もいた古いお寺。境内に線路が敷かれており面白い光景だった。(Wikipediaに境内を走るようになった経緯が詳しく書かれていた→https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%25E8%2588%2588%25E6%25B4%25A5%25E9%25A7%2585#%25E6%25AD%25B4%25E5%258F%25B2)清見寺のほぼ向かいには西園寺公望の別荘、坐漁荘がある。当時の建物は、愛知の明治村に移築されている。ここにあるのは復元されたものだが、当時の雰囲気を感じられる場所だった。夕方だったからか、他に見学の人はおらず、ゆっくりと一息つく。興津宿を出ると、目指す江尻宿はあと5キロほどだ。1日の行程のうちで考えると5キロは大した距離ではないが、歩き疲れた夕方においては、かなり長く感じてしまう。これが堪える。国道1号線をしばし進む。日本橋から168キロとの看板が。とんでもない距離を歩いてきたものだ。江尻宿は現在の清水駅周辺であり、今でも大変賑わう場所だ。道路沿いにも少しずつ店舗が増えてきて、いわゆる都市郊外の光景が続く。夕焼けの中を歩き、ついに清水駅前に到着。時刻は丁度18時。日本橋から数えて18番目の宿場・江尻宿にてこの日は終了。蒲原〜由比〜薩埵峠〜興津〜江尻と、海あり山あり、風光明媚な18.4キロの道中だった。
夜は移動して静岡駅近くのビジネスホテルに宿泊。青葉おでん街で静岡おでんに舌鼓をうち、この日は終了。素敵な締めくくりとなった。つづく。